観る

乃木将軍にもゆかりのある智証大師の寺

第76番札所 金倉寺

 鶏足山宝憧院金倉寺(けいそくざんほうどういんこんぞうじ)は、四国八十八箇所霊場第76番札所。天台寺門宗の園城寺(おんじょうじ)の末寺で、本尊は薬師如来、脇に日光・月光両菩薩を安置しています。また、鎌倉時代の作で国の重要文化財の「絹本著色智証大師像(けんぽんちゃくしょくちしょうだいしぞう)」と室町時代の作で市の指定文化財の「絹本著色両界曼荼羅(けんぽんちゃくしょくりょうかいまんだら)」を所蔵しています。
 古くは景行天皇の血筋を引く和気宅成(わけのやかなり)が、宝亀5(774)年に父が建てた仏殿を譲り受け、道善寺と名付けたのが始まりといわれています。その宅成の子として弘仁5(814)年に誕生したのが、智証大師(円珍)です。小さい頃から利発で、やがて天台宗比叡山延暦寺の第5代座主となりました。
 その円珍が唐から帰り、原田の里にあった道善寺を御誕生地・金倉郷に移転しました。その後、延長6(928)年に金倉寺と名前が改められたと伝えられています。当時は、南北8km、東西4kmの広大な敷地に132院も建っていましたが、天文6(1537)年の兵火によって全焼しました。現在の伽藍は17世紀
中頃、高松藩主松平頼重公によって再興されたものです。
 明治になると、旧陸軍第11師団長の乃木希典が(のぎまれすけ)宿舎にしていたことから、寺には乃木将軍が使っていた文具や軍帽などの遺品が大切に保存されています。

金倉寺の年中行事

円珍・乃木祭

採燈大護摩供が行われ、一般参拝者も火渡りすることができる祭りです。

日時:9月第1土曜・日曜

智証大師・円珍(ちしょうだいし・えんちん)



円珍は、弘仁5(814)年、那珂郡金倉郷(現在の善通寺市金蔵寺町)で生まれました。父は和気宅成、母は佐伯氏の出で弘法大師空海の妹にあたります。15歳で比叡山に登り、天台座主の義真に師事、法名を円珍とし、12年間山にこもって修行を積みました。天子の命令によって、知徳の高い僧侶に賜る称号「禅師(ぜんじ)」を得て、皇室で教えを説くようになりました。 
 仁寿元(851)年に唐に渡り、梵字悉曇(サンスクリット語やインドの言葉)、台教・密教などを学び、天安2(858)年に帰国。翌年に園城寺に唐院をつくり、唐から持ち帰った法具などを収蔵しました。貞観6(868)年に延暦寺の第5代座主に任ぜられ、園城寺を賜り天台寺門宗の開祖となりました。
  教 えを説 いた 弟 子 は100余人にのぼり、円仁(えんにん)、安然(あんねん)らとともに天台密教の歴史に偉大な業績を残しました。「法華論記10巻」、「大日教指帰」など多くの 著書があります。寛平3(891)年に入定され、延長5(927)年に諡号(しごう)として「智証大師」が 贈られました。

金倉寺の見どころ

大師堂

智証大師と弘法大師の像を安置。共に「大師」の称号を得、「讃岐の五大師」に数えられています。

訶梨帝母堂(かりていもどう)

本堂の左側に位置。訶梨帝母(鬼子母神)の尊像を祀っています。


「訶利帝母尊(かりていもそん)」は鬼子母神としても知られる子どもと女性の守り神。円珍の守護神として知られ、地元では「おかるてんさん」として親しまれています。


乃木希典将軍 遺品展示室

明治31年から約3年、この寺で暮らした乃木希典愛用の軍帽、肖像画、夫人からの 手紙などが保存されています。

乃木将軍妻返しの松

金倉寺本堂脇にある松の木は「乃木将軍妻返しの松」と呼ばれ、乃木将軍の厳格な軍人らしいエピソードを今に伝えています。
 乃木将軍が旧陸軍第11師団長に就任した明治31(1898)年の大晦日、乃木将軍の妻である静子夫人が東京から訪ねてきました。その日は雪が降り、夫人が到着した夕方頃はすでに薄暗くなっていました。取り次ぎの小僧の妙栄坊が急いで乃木将軍にお伝えしましたが、「別に会う必要はないでしょう。」との一言で、夫人は追い返されてしまいます。その帰り道、静子夫人が思案顔でたたずんでいたのが、この松の木の下でした。この話は明治の軍人気骨と明治女性の姿を今に伝える逸話となり、夫人がたたずんだ松は、いつの頃からか「乃木将軍妻返しの松」と呼ばれるようになりました。



ここに地図が表示されます