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黒船来航で活躍した幕末の天才・河田迪斎(かわだてきさい)を称える碑

河田迪斎顕彰碑

 四国八十八箇所霊場第76番札所金倉寺に隣り合う新羅神社の境内には、日本を代表する江戸時代後期の儒学者、河田迪斎(かわだてきさい)の顕彰碑があります。
 迪斎は、1806(文化3)年、現在の金蔵寺町で生まれました。8歳から儒学を学び、15歳で伊予小松藩の朱子学者である近藤篤山に師事。師は京都への留学をすすめましたが、両親を相次いで失った迪斎は、家計を支えるために地元にとどまります。やがてその才能が認められ、江戸幕府直轄の昌平坂(しょうへいざか)学問所で学び、1834(天保5)年には著名な儒学者佐藤一斎の養子となり、後に学問所を率いる林家の塾頭となりました。
 1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀沖に来港すると林家当主の随員として交渉の場に臨み、翻訳や記録を担当。日米和親条約は自ら筆を執って書き上げたといわれています。1859(安政6)年、病に倒れ帰らぬ人となりました。子の河田烋(よし)は東京市の助役として活躍し、孫の河田烈(いさお)は第二次近衛内閣の大蔵
大臣を務めたことで知られています。


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